現代将棋とモダン・アート
こちらのブログに、大変興味深い週刊将棋の記事が紹介されていました。「現代将棋の分かりにくさ」に関するものらしいのですが、その中でもひときわ興味を惹かれたのが、羽生名人の次の言葉でした。
現代将棋はモダンアート。古典派の芸術のほうが見た目は分かりやすかった。今はプロでも何をやっているのかわからない。
もちろん私は、現代将棋の神髄を理解できるわけでもなく、モダン・アートの本質を理解しているわけでもないのですが、このような「芸術を理解するとはどういうことか」という問題に関しては、常々興味を持っていました。そこで、例によって拙い文章を綴ってみようかとも思ったのですが、今回は、手近にあった数冊の本の中から、これに関連すると思われるさまざまな見解を抜粋して並べてみようと思います。いろいろと考えて楽しむ素材になれば幸いです。(将棋は、科学・芸術双方の性質を併せ持つものと考えられるので、科学の本からの抜粋も入れてみました。)
理解するとはどういうことか
・「何が描かれているか」という基準で見る限り「モナリザ」は「わかる」し、「黒に黒」(アド・ラインハートの作品。四角いキャンバスが真っ黒に塗りつぶされている。)は「わからない」。しかし「モナリザ」とは誰か、レオナルドがこの絵によって何を言おうとしたのかは今もって謎である。主題が分からないのだ。その点で「黒に黒」と寸分も違わない。「黒に黒」が私たちにとって「モナリザ」と違うのはだからその外観(見た目)にすぎない。ラインハートの世界解釈システムが「見た目」とは違うところで機能しているからだ。」
・「わたしたちがレト・ボラーの作品を「わからない」と嘆くのは、「芸術」という西洋近代が生み出した抑圧的観念のベールによってわたしたちの眼差しそのものが「制度化」されているからではないのか?」(「20世紀絵画」 宮下誠著)
・われわれにとって「和音」といえば、たとえば「ドミソ」のことであるが、中世においては「ドミソ」は不協和音だった。つまり「ミ(三度)」が入っていてはいけなかったのである。・・・中世の人々にとっては、この(近代の和声法では「空虚五度」と呼ばれて禁則とされる)「ドソ」の響きの方が「正しかった」のである。(「西洋音楽史」 岡田暁生著)
・「シュレーディンガーはこの疑問に対して具体的なメカニズムを示すことは出来なかった。しかし、彼は次のように予言した。生命には、これまで物理学が知っていた統計学的な法則とは全く別の原理が存在しているに違いない。その仕組みは、しかし、エンテレキー(生命力)といった非物理学的な、超自然的なものではない。それはわれわれがまだ知らない新しい「仕掛け」であるが、それもまたわかってみれば物理学的な原理に従うものであるはずだ。」(「生物と無生物の間」福岡伸一著)
「音楽形式を記述あるいは説明する場合、そのベースとされてきたのは、常に数学あるいは言語学のモデルであった。18世紀と20世紀の音楽分析家は言語のアナロジーをこぞって愛用したが、それによれば音楽にもフレーズ、センテンス、ピリオド、パラグラフがあり、独自のレトリックがあることになる。しかし、K62aの第1楽章のような作品に言語のアナロジーを持ち込んでみても、結果は馬鹿馬鹿しいものにしかならないだろう。なぜならこの曲の場合、それは接続詞、前置詞、冠詞ばかりを並べて文章を作るようなものだからである。この曲で発揮されているような種類の音楽想像力においては、実践が、それを説明する理論の能力を遙かに凌駕しているのである。(「モーツァルトのシンフォニー」 ニール・ザスラウ著)
・「フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズの業績は、メディアがそのように報道したことによって初めて一般の人々に大発見であることが認知された。それはあくまでも二次情報による二次的な価値判断でしかない。ワイルズの発表を聞いて当時その意味が理解できた人間はほとんどいなかったのであり、現在でもほとんどいないのである」(「生物と無生物の間」福岡伸一著)
・「様式や主義主張の「交代」ではなく、その併存、共存、同時展開こそが20世紀美術の歴史を織りなしているのである。歴史は単線的に進行するのではなく、同時に存在する様々の流れが、時に対立し時に絡まり合いながら展開してゆく。20世紀美術が極めて豊穣多彩であると同時に、また複雑多岐で混沌とした様相を示しているのも、そのために他ならない。このような状況が生まれてきたのは、おそらく19世紀初頭、ロマン主義の登場以降のことである。」(「20世紀美術」 高階秀爾著)
・「人はみな絵画を理解しようとする。ではなぜ人は小鳥の歌を理解しようとはしないのだろうか。美しい夜、一輪の花、そして人間を取り巻くあらゆるものを、人はなぜ理解しようとはせず、ただひたすらそれらを愛するのだろうか・・・。」(ピカソ)
・「ピカソの不満は、人が絵画を「理解しよう」とすることにあるのではなく、人が絵画を「愛そうとしない」ことにある・・・」(「20世紀美術」 高階秀爾著)
・「シェークスピアは7才で読んで面白く、17才で読んでまた面白く、70才で読んでさらに面白い」(T・S・エリオット)
「モンドリアン芸術は絶えず変化し自己否定し成長し、生成し、多様化する「全体」として捉えたい。常に先行する作品から逸脱し続けていく、絶えざる差異生産の運動として、完成したかに見える均衡を次の瞬間には破壊しさらに新しい均衡を探す営みの連続体として捉えたい。・・・モンドリアンの真実の姿は、次の瞬間には壊していく行為のうちに見いだされる。そのような永遠に未完のいとなみの集合体として、私たちは、束の間の、移ろいやすく、変化してゆく多くの真実と美を贈られる幸せに与ったのである。」(「絵画の思考」持田季未子著)
「歴史を一本の糸のように見て、過去から現在、未来にかけて直線的につながり、先に行くほど進歩するとか光明に富んだ時代になるとか言う考え方を批判して〈おのおのの時代は神に対し垂直な関係に立つ〉と言ったのは、確か19世紀の歴史学者ランケだったと覚えているけれども、音楽家、演奏家達も、また、前の人達の方が霊感に満ちていたとか、あとの時代になるほど技術が進むとか言うことはないので、それぞれの在り方とそれぞれの時代との様式において、作品に対し垂直な関係にあるのである。つまり、どの人の演奏も、一方では歴史の中で捉えなければならないと同時に、どの人の演奏も、それ自体の価値と考え方の体系として、その内部で評価されるに値するのだ。」(「一枚のレコード」 吉田秀和著)
創作・研究活動の側から問題を眺めてみると
・「われわれがキュビスムをやっていた頃、じつはわれわれはキュビスムをやろうなどという意識はおよそ持ち合わせてはいなかったのだ・・・」(ピカソ)
・「私は感動を修正する規則を愛する」「私は規則を修正する感動を愛する」
(ブラック)
・「私は絵画がもはや絵画でなくなるぎりぎりの限界にあることを望む。しかしそれにもかかわらず、やはりそれは絵画だ。」
(デュビュッフェ)
・「ある無邪気な知り合いから「どうしてかつては・・・ロマンティックで美しい調性音楽を書いていたのに、なぜ不協和音だらけの曲しか書かなくなったのか?」と尋ねられたシェーンベルクは、憤然として「自分だって出来るなら調性で音楽が書きたい。しかし三和音を書くことを、歴史が私に禁じているのだ」と答えたというのである。」(「西洋音楽史」 岡田暁生著)
・「往々にして、発見や発明が、ひらめきやセレンディピティによってもたらされるようないい方があるが、私はその言説に必ずしも与できない。むしろ直感は研究の現場では負に作用する。これはこうに違いない!という直感は、多くの場合、潜在的なバイアスや単純な図式化の産物であり、それは自然界の本来のあり方とは離れていたり異なったりしている。」(「生物と無生物の間」福岡伸一著)
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